しょうもない話。
昔、社会の歯車という言葉が嫌いだった。
言葉の印象からすると、居てもいなくても変わらなくて、自我がなくて、一生同じところで同じことを強要されているような印象を受ける。
Weblio辞書では「会社のために過剰に働くこと」とある、この意訳には少し違和感を感じるが、当時は言葉の印象だけで考えたうえで嫌悪感を抱いていた。
この言葉を聞いたのは随分昔でそれからずっと覚えているんだから、社会の苦しさや息苦しさを表現する言葉としてどこか適切なもののように感じていたんだと思う。
今考えてみると、歯車というよりギアシャフトだなと思った。
歯車にシャフト(棒)がついていて、シャフトの回転運動を別の用途に活かすことができるやつ。
つまり社会の歯車(ギア)は回っていて、自分もそれに参加していて、次の歯車へと力の受け渡しをしているけれど、そこから生まれるシャフトの回転運動は僕のもので、これは何にでも変換ができる。現実で例えるなら歯車部分は仕事だけど、シャフトはそこからでた給与だとか名声だとか技術とか人間関係とかで、それらを使って好きなことが出来る。
だから言葉遊びにすぎないというか。何か的を射た言葉のようだけど、別に悲観することでも楽観することでもなく、単なる例え表現なんだなと思いました。
きっと人を機械の部品のような意思を持たないもので例えられるから少しムカつくだけなんだろう。
屁理屈かもしれないけど、一つ小さな呪いが解決したような気持ちだから遺しておく。