地元愛の説_93

・街に依存する

立川市に引っ越そうと考えている。

漫画「それでも吉祥寺だけが住みたい街ですか?」やモヤモヤさまぁ〜ずで紹介されていたこと、一度行ってみて緑の多い地方都市の雰囲気が気に入ったこと、大きな公園があること、東京の西側なので少しは土地勘あること、これらの理由から立川になった。

家賃と駅への距離、部屋の広さの兼ね合いが悩ましいところだが、立川駅近辺はほぼ確定のつもりだ。

 


「大きな公園が近所にある」ことで家を選ぶのは安心感がある。大きな公園はそうすぐには無くならないだろう。街が栄えている感じ、高い建物がなく視界が開けているのも気に入っている。

そういえば僕は地元で気に入っている場所が殆どない。車社会で大抵の場所は親に連れられてしか行けなかったし、親との関係はイマイチだったから仕方ない。どうりで地元愛がないし、地元愛を理解できないわけだ。

 


今回街を気に入って引っ越すことで、僕も少しは地元愛が湧くかもしれない。

地元愛は実は結構幸福において重要な要素なんじゃないか。マイルドヤンキーのような幸福も、地元愛抜きには語れないだろう。

 


依存先は多い方がいいと言う。人(趣味仲間、家族、恋人、仕事仲間)の依存先は悪くはないが、関係が崩れたり疎遠になったりする、不安定な依存先である。だから多く持たないと、自分が不安定になってしまうという理屈だ。

しかし街自体が依存先となれば、その街はなかなか裏切らない。10年単位で徐々に変わっていくことはあるだろうが、すぐ長所が無くなるものではない。そもそも街に依存するというのは、街を構成する複数の要素に依存するということで、言い換えれば依存先を多く持っているということだ。原則は変わらないね。

 

 

 

・ジムを退会

やーーーめた。

さほど敗北感みたいなものはなく、元々軽い気持ちでやめたらいいと思っていた。筋トレする人の気持ちが少しわかったし、体に関する知識もついた。久々のプール通いも楽しかった。いい体験だった。

 


しかし、なんでやめたのか。

運動で痩せたら運動をやめたときリバウンドするんじゃない?という疑念と、それを回避しようとすると一生ジム通い、一生月額1万5千円払わなきゃいけないのか?という計算。

これだけ払っているのにあんま行かないという、自分を責める機能として働くジム契約。

わずかに痩せたとて、誰も痩せたことに気づいてくれない。まれに言ってくれても、僕がお世辞だと思い信じない。

 


理由としてはこの辺り。最後に書いた、お世辞だと思って信じないのは一番良くないよな。自己肯定感の低さ。

もっと何も考えず、一心不乱にやれば分かりやすい結果がついてきそうなものだが、そうはなれなかった。(だから愚直で不器用な人に少し憧れがある。)

痩せたねはあまり言われなかったけど、ジム通っていてすごいねはたまに言ってくれたんだよな。人から褒められることはモチベになりそうなものだけど。

 


これに関連して、物事の習得やスキル向上の際に大事なことは、恥じらいを持たないことだなと思った。

・自分が未熟であることを恥じず、人に聞いたり再挑戦したりできること。

・また、少し成果が出来たらすぐ人に話して、褒めてもらおうとすること。

たまに未熟な人間を叩く人が居て、それで恥じらいを覚えてしまうのだけども。褒められて浮かれているぐらいのほうが成長が早そうに見える。

 


高校の頃友人が、トレーニングした自分の上腕二頭筋を頻繁に触らせてきたことがある。当時は上腕二頭筋が膨れていることに全く魅力も感じなかったので、ただ鬱陶しかったことを覚えている。あの時褒めてやりゃ良かったな。(でもクラスで一番のデブに聞かなくてもいいじゃないか)

でもそういう人が良いんだよな、自分が努力して、すぐに人に話して、褒めてもらおうとする人。可愛げと、いい意味で恥じらいのない人が出せる成果がある。

 


ま、減量はこれからも続けます。ゴチャゴチャ考え、恥じらいを捨てきれない人間が出せる成果もあるでしょう。

 

 

 

・ラジオ

最近ラジオを聴く趣味ができた。仕事やゲームの単純作業にピッタリだった。

知っている芸能人、お笑い芸人を聞いていくのだが、複数のラジオで共通の話題が出たりすると気になっちゃうものだね。そんなに流行ってるの?みたいになる。踊らされている。

ゼルダのティアキンや、漫才コンテストの THE SECONDらが話題に上がったりして、どちらも僕にはホットな話題だったので結構テンションが上がった。

そういえばこのブログは週1だからラジオと近いものがある。ラジオ聴きにハマるのは必然だったかもしれない。